2021.8.18

第二十八回 なぜ脱炭素が必要なのか

日本再生可能エネルギー総合研究所 北村

 異常気象が止まりません。
 梅雨明け前には、熱海の住宅街を大雨による土石流が襲い多くの犠牲者を出しました。その後8月には、梅雨に戻ったような連日の豪雨が九州や中国地方などに被害をもたらしました。
 気象庁は、今回、大雨特別警報を各地に出し続けました。特別警報とは、「数十年に一度の、これまでに経験したことのないような、重大な危険」を意味するのですが、お気づきのように、このところ毎年の出来事になっています。異常な状況が実際にはごく普通に起きているのです。

 今朝(8月17日)の日経新聞に、『「50年に一度」級の雨、頻発』という記事が載っていました。それによると大雨特別警報を気象庁が導入したのは今から8年間の2013年だそうです。降水量が「50年に一度」レベルになったときに出され、その地域に住む人が一生で一回か、二回程度しか経験しない災害とされています。
 記事では、ごくレアなはずの特別警報が西日本を中心に常態化していることを、具体的な数字にしています。「経験のないような雨」を経験した回数と題した表では、福岡県と長崎県で発令が5回、佐賀県4回、広島県と沖縄県3回です。九州北部豪雨で福岡県の朝倉市を中心に数十人の犠牲者を出したのは、わずか4年前のことでした。

 甚大な被害をもたらす災害は、もちろん日本だけで起きているのではありません。
 7月には、ドイツ、ベルギーで大洪水があり、200人を近い犠牲者が出ていますし、カナダの山火事では町が丸ごと消えました。ありえないと考えていた災害が普通に起きる、そんなことが珍しくなくなった時代に私たちは生きているのです。
 自国の大洪水に対して、ドイツの環境相シュルツェ氏は、「気候変動が到来した」と話し、メルケル首相が「気候変動に断固として取り組む必要がある」と強調したのが印象的でした。

 気候変動の原因は、人間の行動だといいます。二酸化炭素排出の増加が起こす温暖化のことです。8月初めに、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が第6次評価委報告書の一部として、地球温暖化の科学的な根拠を示す内容を発表しました。そこでは、温暖化の原因が人類にあると断定しました。「疑う余地がない」というのです。また、世界の平均気温は、産業革命の前に比べてすでに1.1度上昇し、それが2040年までに1.5度になるとしました。この気温上昇予測はこれまでよりかなり早いものです。
 脱炭素への努力が虚しくなりかねない残念な見通しですが、一方、二酸化炭素の排出を確実に減らせれば、いったん1.5度を超えても今世紀末に再び下がる可能性があるようです。いずれにせよ、あきらめてしまえばそれで終わりで、今、行動に移せば、まだ間に合うとすこしでも前向きに考えることです。
 つらつらとつらい現状を書き連ねましたが、私たちが脱炭素を行う本来の目的は、ここにあります。温暖化を食い止めて、極端に増え続ける災害を少しでも減らすことです。また、海面上昇によって狭まりかねない居住空間を守ること、失われようとしている食糧を確保することなど、すべてがつながっています。

 昨年10月末の政府のカーボンニュートラル宣言によって、脱炭素は待ったなしの政策となりました。事業の継続に直結する企業や再生エネ拡大のベース基地となる地方自治体の間で脱炭素宣言が相次いでいて、重要性は共通認識となりつつあります。
 しかし、多くの人にとって目の前で起き続ける災害と二酸化炭素増加との関連性がいまひとつ、ぴんと来ていないように映るのは私だけでしょうか。結果として、カーボンニュートラルへの取り組みへの強い熱意に結び付かないことをつい心配してしまいます。

 このコラムでの繰り返し書いているように、企業継続や地域活性化と、脱炭素の取り組みは切っても切れないものです。そのモチベーションが再生エネ拡大などにつながることは、間違いなく良いことです。しかし、今回のコラムで強調しているように、脱炭素は、どう事業や地域を存続させるかというテクニカルな課題というだけではなく、生きとし生けるものが持続してこの地球で暮らすための必須条件です。切迫した現状にいったんは立ち返って、考えるべきなのです。
 スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさんの遠慮のない強烈な主張は、瀬戸際にある地球の現状を踏まえてのものだと思います。それに対して、現実的でないとか、中には個人攻撃ともいえるシニカルな非難も聞かれます。これは、攻撃側の資質の問題も大きいのですが、温暖化に対する危機感の違いが根底にあるとも考えられます。
 確固たるトレンドとなった脱炭素ですが、一気に膨れ上がった期待と必要性の中で、その本質を見失わないように大事に息長く取り組んでいきたいと思います。これは、政府や、企業や自治体だけのことではありません。私を含むそれぞれの個人の課題であると最後を締めくくることにします。

以上

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